わたしの10代  (宿命への挑戦)  千田 正雄(1933?〜 )

(2007年1月目白学園高校講演資料)

はじめに
 関東に人の文化が根付いて5千年としたとき。50歳の年齢差は 1/100で1mスパンの1cm
にすぎぬ。その中で生ける者同士が今昔の善し悪しを論ずるは奇なり。ましてや、生き方を指
導するなど、自分にはおこがましすぎ。ただ地球上のいち生命体として存在を赦されている瞬
間的先輩として、その歩みを披露して瞬間的後輩諸君の参考に供してみたい。日高見の小さ
な百姓の三男という宿命的な身分に逆らって生き延びようとした自分の10歳代を披露する。

1)出生年の謎
 平成天皇のご誕生と同じくして出生、100年の中歴史的凶作の年。未熟児で死亡が予見さ
れる。よって唯雄そくタダの子とよばれたが、奇しくも生き延びた1年して叔父さんが正雄ととど
ける。
 小1入学のとき、マサオと呼ばれて、返事できず、名も判らぬオバカと烙印をおされ、いじめ
に遭う。間もなく言語力不足ゆえの、ケンカ。級友の目を物差しで突いて怪我負わす。ケンカは
やめる。

2)死の淵盲腸炎と仲間達(中一春)
 戦争するに音楽などいらぬ、と先生に逆らう(はつこい?)
 音楽の時間に突然の腹痛。5日後、戸板の担架で入院。助からぬ'の宣言。 米軍のペニシ
リンで助かる。
 音楽の先生が学友連れ見舞いにくる。机に置き忘れの国語ノート持参。「正雄モチヨウ」の記
名の「モチヨウ」消して。「持用」を「盲腸」と勘違い読み、仲間のいじめっ子の悪戯と考えて、そ
こまで虐めなくとも、のカバイの心に涙す(友人を識る)。

3)カスリーン(中一秋)とアイオン台風(中二) (犠牲者各人 1,945、838)

4)宿命を悟らせた台風被害復興への意欲、土工事にボランテア参加と 三男の宿命

5)土木(測量)技師への大望、石工か土方かの岐路に立つ

6)工業学校への密かな挑戦と合格。
 新聞発表、シンネ(生活共同体)会議。半反歩の水田借用(名ばかりに帰すも)。学生服と野
良着の着替え。ラグビー部チームワークの意義。
骨折。馬の飼育。怪我の発覚。水泳部に転部。優勝。
(北上市の初プール完成)。
朝鮮戦争の集結。長兄のシベリア捕虜死=退学の危機。

7)北上川総合開発開始と工業高新卒での参加。測量士国家試験合格10名(集合に遅れイジ
メらる)の中1人の合格。

8)唸る坑道と地質工学高級技師との出会い。高級技術者への大望。

9)地質調査ボーリング技工の訓練

10) 海外へ(20歳。赴任途上の海上で成人誕生日)、東洋屈指の高落差水力開発(ダニム16
万KW)。久保田イズム(ザ・シビルエンジ゙ニア)と氏の旧宗主国への挑戦。虎とデング熱と土着民。
熱帯の地質に苦闘。
・ インドネシアへのODA第一号プロジェクト 先発7人の士の一人として参加(久保田イズム、オラ
ンダの15年計画を1年半で完成のマジックショー参加)(24歳)。・・・・・ブランタス河総合開発と
技術移転のブランタス学校
・ ウリンギ事故とご遺族(39歳〜)
・ インドネシア・アサハン水力アルミ生産プロジェクト調査隊リーダ(37〜43歳)
  久保田師のライフワークプロジェクト。完成の3年後師は96歳で没。
・ 電力土木誌に発表のトンネル改築工法論文で優秀技術論文(高橋)賞(50歳)
・ 国家試験ー技術士(地質)初挑戦にて合格(53歳)
・ 国内・大規模ダム工事の最中、基礎岩盤の微細な異状を察知、それは重症の前兆と診断、
工事中断を強固に進言。5年の歳月を要す事前の対策工事を経るも成功裡の完成に導く(55
歳)。
・ 中越地震の震央に近接の幹線国道トンネルの岩盤補強工事の必要性を地震の4年前に
主張。3年前に工事を完了に導く。地震時軽微な損壊が起きたが余震終期にいち早く開通で
きたことへの貢献。対策なければ地震時地山崩壊の惨事に至る旨の診断報告(67歳)。
・ ヒマラヤ山中の都市水道トンネル計画の計画工費の評価。水力発電兼用の計画はコスト
高で発電削除の方が、水道代2〜3割安にできることを延長30km、2千米級の山岳踏査で地
質学的に解明。計画変更説得成功(65歳)
・ (社)日本技術士会応用理学部会長等、技術者活性化活動(会長表彰66歳)。


1 和賀のカッパの誕生
2 終戦と若おとこ先生
3 古橋選手
4 アイオン台風と技術者
5 黒工水泳部
6 和賀の仮設プール
7 黒工水泳部史
8 トンネル屋
9 海外技術協力(久保田豊に学ぶ) 

1 和賀のカッパの誕生
 時は昭和8年、日本が国際連合を勇ましく脱退、そして日中間が既に開戦状態に突入。軍部
の台頭きわだち、経済危機と、抑圧された民衆の不安、加えて昭和時代を代表する大飢饉が
それを追い打ちし、子女の身売りが通常の行為として流行る陸奥日高見だいら(平)の里に一
人の小さな男の子が貧しい農家の第六子として、子隠しされながらの生を授かった。たまたま
時を同じくしてご生誕の王子様の、國を挙げてのご誕生祝賀にまぎれて、間引きの対象から外
しても赦される状況があった。幾度かの民間療法的な堕胎行為も試みられたが、頑強な母体
にしっかり着床した胎児は容易には引き剥がれなかった。時に近隣に陸軍飛行場の建設がは
じまり、各農家の主婦達に土(ど)工事や草むしりの人足としての勤労奉仕が、事実上強制命
令として下されていて、臨月に入っている母は、妊娠を隠し通してその仕事に出かける手立て
になっていた。とその朝、陣痛である。そのさなか、母は15歳になる二番目の娘に、自分に代
わって勤労奉仕に出るよう命じた。まともに産婆のお世話にもならずに、男児は誕生した。か
なり早産であった。子は小さく、これまでの五回の出産経験のなかまともに育ちそうにもないと
判断された。幾日もせずに死亡することを勘定にいれられ、北隅の薄暗い寝部屋の奥に隠さ
れながら"エンツコ"に押し込まれて育てられた。幾月かして子は死にそうもなく、大声で乳を催
促するようになった(1970頃次長姉タケ)。
 昭和9年は、口減らし機運の世間態の中での新生児の誕生を役所へ届けるなど、気弱な百
姓にはおこがまし過ぎて到底できることではなかった。しかし年は師走、一年も放置されたまま
の無届けの子がようやくに認知となり、丁度一年遅れての出生日を誕生日とし村役場の戸籍
に記帳された。
 名は、隠し育てられた時に便宜的に呼び慣らされたのは"タダオ"であった。予定外の唯(役
立たない)の子の意味が込められていた。
 よく実家の面倒をみてくれていた叔父さんが母に頼まれて届けに出向いた。道すがら、唯男
って・・・・・・・、いかにも情けない名前、正を唯と読めば正雄でもよかろう。ルビの習慣の無い戸
籍法の時代、"正雄"と言う漢字で届けたことを文盲の母に告げた。が 何の反応もなし、それ
で実生活に困ることは何も生じなかった。
 未熟児の影響か、一年遅れ入学の一年生ながら、入学時小さい方から3,4番の小粒の一
年生、はじめて出席簿点呼があり、「マサオ君」と言う先生の優しい声がした。タダオの筈の自
分はポカンとしていて反応しなかった。ところが、誰かが"タダオ"お前が呼ばれたんだよ!すぐ
返事をせよと自分を指さして大声で叫んだ。・・状況が分からぬまま、慌てて「ハイ」と返事をし
た。それ以来、自分は近所かいわでの名を"タダオ"とそれ以外の公式名は、"マサオ"というこ
とにになった。
 ただ、それ以来、自分の名前も分からないバカワラシ(馬鹿童子)という烙印を押されることと
なったやに。

 このミニ事件はその後しばらくの間、仲間からのいじめの対象となる始まりとなり、いわれの
無いいじめに、少年の心は やり場のない暗闇に落ち込んだ。
 特に隣の席に居合わせることになった大柄の同級生Y君がそれを囃した。言語の未発達の
子供には、いじめに反論できる能力はなく。小柄の体を張っての暴力による反発がしばしば、
だが多くの場合組み伏せられて泣きの涙となった。が ある時発作的にブリキ製の絵の具箱を
振りかざして対抗、それが相手の下瞼を切り裂くと言う事件を起こすこととなった、危うく失明。
彼は生涯その傷を顔に残しての人生を歩むことになった。傷を負わせた当人もまた、後悔の
念を生涯背負うこととなった。Y君はあのとき何故けんかになり、顔に傷を残すことになったの
かを65年後の今日も未だ疑問のまま疑念を持ち続けているに違いない。理由なんて今だから
言えるのだが、日頃の小さないじめられの鬱憤が一気に爆発した発作的な動機によるように
想える。幼い項のやる瀬なきこと。高価な代償・・・いじめは消えたが。

 そこは和賀と呼ばれる日高見の國、奥羽六郡の一つ、地名の由来はアイヌ語の湧き水"ワッ
カ"と言われ、古代からこの名があったとされる。1189年
奥州平泉藤原氏が頼朝に征伐される訳だが、その10年後の1197(建久八年)相模の國曽
我に匿われていた頼朝の庶子春若丸(後の忠頼)を奥州南部和賀郡に封じ、多田式部大輔忠
頼と改めさせ、以後「和賀ノ御所」と称された。別説に多田行國の子行義が和賀を称す。   
以上(URL:harimaya.com/senngoku/waga_k.html)から。
 などの古代から人社会の営みに好条件をかね備えた土地柄。であるだけに領有権争いのメ
ッカとなり、新憲法の時代までにらみ合いの途絶えることのない
せめぎ合いの続いた社会であった。

 そんな流れのなか、広陽たる日高見平野の中ながら、、東は北上川・北は和賀川・西は夏油
川と三方を大河に仕切られ南を伊達藩境に閉ざされた南北2Km、東西8Kmの東西に長い
が限られた区域が少年の許容された活動区域にすぎなかった。長手の北半分が和賀川の氾
濫源で水田地帯、南半分は氷河時代末期の土石流扇状地堆積になる台地で、表層は保水性
の小さい火山灰に覆われた痩せた畑地と里山の森。遊びはもっぱらの戦争ゴッコ格好のてき
ちである。だが百姓の手伝いを期待する親や兄貴の目を逃れてゴッコに皆が集合するのは至
難の知恵がもとめられていたが・・・。
 三方を川に閉ざされていては、否応にも川とのなじみが無ければ生きられない。つまり、泳ぎ
こそが自分の存在をアピールできる手段である。しかし、確かに泳ぎの達者な輩は多いが、男
は"抜き手"、女は"犬掻き"の決まり手の技法での達人に過ぎなかった。がしかし・・・。ある日
若男先生が赴任してきて、全身を直線に保ったままで、足先だけを僅かに泡立てながら、急流
の水面を流れ下る丸太材の様に水を舐めながら静かに交互に両手で掻き分けて泳ぎ進む姿
のお披露目に、少年達の目は点になっていた。自分たちの泳ぎとは別世界のもので、とても泳
ぎを教えてなどとは、おこがまし過ぎて言い出せなかった。川辺で先生が泳ぎ出すと、みんな川
辺に上がって口をつむんだまま、じっと見据えているだけだった。川ではガキ大将を気取って
いた少年も例外ではなかった。
 そんな、少年達に、ニヤット笑顔を投げかけて、何も言わずに立ち去る若先生
の行動は数日続いた。
 が、ガキ大将少年は、意を決して声をかける。どうしてそんなにうまいの!
先生。やっとの一言がいえた。
 先生は、ニタニタの繰り返しで、すぐには答えてくれず・・・・、宿直室に泊まり込んでの勤務だ
った、付いてこい の一言をもらって、学校に、板の間廊下に四つんばいにさせられ、泳ぎは手
で泳ぐんじゃない、脚だ。つまり、クロール泳法のバタ脚と呼吸のコンビネーションを教わった、
後は練習あるのみ!
 練習さえすれば、大きな大会に出て一位になれる。の言葉をましょうに承けて、
心にきめた。だが魚を捕まえることを最大の武器としての泳ぎをよしとする
 先輩同僚の中で、ただかっこよくを目的のクロールは ひんしゅくもの扱い。みんなの前でそ
れを練習するのは、相当に恥ずかしい。また、川の急流を抜き手泳法で流されながら泳ぎ下る
川遊びは伝統的に若者の一番人気。激流以外の川の よどみなどは魚釣りの対象ではあり、
幼児の川遊びの場ではあっても若者の興味のない場所であった。
 クロールの練習には、流れの無い静かな水面がよいと自分流に考えた。川幅のある河川敷
のなかで、時に洪水時にだけ流れがあって、水が退くと入り江になり、周囲が背高化の葦で囲
まれる水場が時に現れる。格好の練習場を見つけた少年は一人密かにそこを隠しプールと名
付け、そこでのクロール練習が毎日の日課になった。悪ガキグループから一人外れて、そこに
潜入するのには、かなり勝手な方便が必要だった。ましてや、百姓を手伝わせるために、学校
帰りを今か今かと待ち受ける、鬼より怖いお袋の目をかすめるのに、かなりの知恵を必要とし
た。例えば、河原に近い畑に、草むしりなど志願し、入り口の目に付きやすい部分だけ大急ぎ
で片付け、あたかも畑一枚の草が取り終えているかの様に見せかけて、時間を浮かせて隠し
プールに潜入するのたぐいである。

2 終戦と若おとこ先生
 朝からじりじりと太陽がグリグリ頭を照りつけていた。今日も勤労奉仕にかりだされる。8:00頃
大きいしだれ柳が校庭の中央に聳える小学校の校庭に鍬をかついだ生徒が直立不動の姿勢
で校長先生の檄を聞かされていた。どことなしか口調が元気がない。あついからなー。だけど
担任の先生も何時になく無口。いつもの日とは雰囲気がちがう


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