一人は皆のため、皆は一人のために  

 そこは御茶ノ水の東京ガーデンパレスホテル、かつての湯島会館だった。以前近くに日本工
営御茶ノ水分室があり、社員たちがよく利用していたところである。このロビーで、千田正雄
は、2人の若い兄妹と会うことになっていた。
 先に来ていた二人を遠くから見るなり、若者のうちのひとりが小路口傑(しようじぐちまさる)
の長男であることがすぐに分かった。顔立ちがそっくりだったからである。
 昭和48年3月30日、千田はその日を忘れることができない。インドネシア、ブランタス河流域
のウリンギでの事故だ。小路口はその事故で亡くなった日本工営社員三人の内の1人で、千
田の部下だった。
 事故当時、彼の二人の子供は二歳と一歳未満。千田が彼等に再会するまでに、20年近くの
月日が流れている。
 2人に会うことになったきっかげは、彼らの母親に頼まれたからである。
 この年、平成2年、千田は群馬県内にある小路口氏の妻の実家近くに、社員旅行で行く機会
ができた。それまでも時節の手紙の交換くらいはしていたので、連絡の葉書を出しておいたの
である。
 当日、社員たちとソフトボール大会をやっているところへ、夫人が車でやってきた。彼女がい
うには、最近子供たちに父親のことを聞かれて困っている、自分は1年くらいしか一緒に暮らし
た期間がないので夫のことをよく説明できない、子供たちに会って父親のことを話してもらえな
いだろうか、ということだった。千田は快く引き受げた。
 湯島会館のレストラソは、昔小路口氏とよく行ったところである。
 今は立派なホテルとなった思い出の場所で食事をしながら、千田は2人に小路口氏が会社に
いた頃の話をしたのだった。
 ウリンギ遭難事故は、日本工営がインドネシア政府の委託に基づき、インドネシア東部ジャ
ワ、ブランタス河総合開発計画についてのエンジニアリングサーピスの一環として行う、ウリン
ギダムサイト地点の最終地質調査中に起きた。
 昭和48年3月30日午前11時30分から12時にかげて、調査を終えた一行は渡し船で左岸から
右岸に戻るところだった。河は増水して幅60メートルくらいになっている。
 船には日本工営スタッフ3名、インドネシア政府職員3名、インドネシア側地質技師2名、船頭1
名の計9名が乗っていた。渡し船は両岸にワイヤーロープを張り、ワイヤーに綱で船を結び、
それを船頭が操作する形式である。
 右岸まであと5、6メートルの地点。突然船首から水が流入してきた。
 河水が乗船者のひざまで達したときに、小路口技師が最初に河に押し流された。
 続いて星野弘部長、山口允啓土木技師が流される。インドネシア地質技師2名も同時に流さ
れた。すぐに捜査隊が出されたが流れが早く、彼らを見つけ出すことはできなかった。
 千田はこの頃日木にいた。そもそも地質部第一課長だった千田が、最初はこの調査に同行
することになっていたのである。
 ブランタス河は全体計画として数箇所にダムを作ることになっていた。
 千田は、日本工営のインドネシア国第一号プロジェクトであるトルンアグン排水トンネル計画
の先発隊の一員として付近に滞在、続いて計画されたその予備調査の段階からプロジェクトに
参加し、ダムサイトを決め、地質の資料の収集にあたっていた。それがそのプロジェクトの途
中、国内の仕事の都合でどうしても行けなくなり、同じ地質部の星野部長に代わりに行ってもら
ったのである。
 星野氏は普段、海外に行くことをあまり好まなかったが、このときはあっさり引き受げてくれ
た。千田は部長が身代わりになってくれたようで心苦しかった。
 また、上司と部下の両方を同時に亡くしてしまったことから、自らご遺族の引率を買って出て
インドネシアヘ行くことにした。地質部全員が夜を徹し、手分けしてパスポートの取得のための
諸々の書類をとりそろえてくれた。
 一行17名が日本を発ったのが4月3日。4日にジャカルタ、スラバヤ経由でマランに着く。マラ
ンは事故現場の上流にあり、日本工営ブランタス河プロジェクト全体の事務所がある。
 そこで千田は所長の佐藤秀樹(執筆当時専務取締役)らに遺族を託し、捜査隊のいる現場に
向かった。
 小路口技師の遺体は3月31日、山口技師は4月1日、それぞれダムサイト下流3キロメートル
地点、18キロメートル地点で見つかった。
 星野部長のだけがなかなか見つからない。とりあえず小路口氏、山口氏のご遺族と千田だ
げが遺骨とともに先に帰ることになった。
 星野部長の遺体は4月14日、下流20キロメートル地点で後に見つかった。
 千田はこの問、当然ながらできるだげのことをしたいという一念から、遺族のホテルでの食
事の世話、本社への連絡等と不眠不休で応対に当たった。
 また帰途に便が悪天侯で予定外の地に着陸、受入れ態勢巾の本社と連絡不能のまま一日
遅れで帰着するなどのアクシデントまで伴い、一行および関係者の心労は尋常なものではなか
った。これは日本工営始まって以来の大きな遭難事故となった。
 その後小路口夫人は幼稚園の先生となり、二人の子供を育てた。
 現在、物理、化学とそれぞれの分野で研究に打ち込む立派な大学生に成長した二人に会
い、千田は感慨ひとしおであり、また救われた思いがした。
 現在、彼は心さな計画を立てている。二人を千葉県の鴨川方面にある小向ダムヘ連れていく
ことである。
 そこは彼らの父親が生前に担当地質技師として参画し、活躍したところだ。水の乏しい地域
に造った水道用のダムで、今も大いに地域の役に立っている。父親の残したこの業績を、二
人に見せてやりたいと思っている。

雨期あけの
 南の灯りや
  きみ視給ふ

 近年ウリンギダムからの電気できらめく近隣の村落を訪れ、小路口氏のご母堂に進呈の一
句をものにした。
 ウリンギ事故では、千田は結果的に難を逃がれたかたちとなったが、これまでに多くの未開
の地への先発隊を経る中で、少なからぬ災難が身辺で発生した。しかし目に見えぬ何かが作
用してか千田自身はきわどくそれをくぐり抜げることを赦されてきている。
 バングラデシュにジャムナという川がある。ヒマラヤの南側流域を流れるガンジス川に対しチ
ベット側から流れて来る川で、この二つはバングラデシュで合流する。
 知名度はガンジス川の方があるが、規模はジヤムナ川の方が大きい。洪水期には川幅が10
キロメートル以上にもなり、ボートで走るときは岸が見えないため常に磁石を見ていないと方角
が分からなくなるとんでもない川である。
 この川に橋をかけるたあの調査に行った時のこと。設営隊チームのチーフだった千田は、河
原砂漢の中に100メートル四方のバリケードを作り、中に20畳敷きくらいのテントを5張り設置し
た。
 少々の鉄管とパイプレンチのみの千田独特の手動弁方式での井戸を掘り、水道、排水設備
を各テントに配管。食堂、風呂もある、そしてヘリポートもあって軍のべ-スキャンプのように本
格的なものである。
 それぞれのテントの周りはぐるりと塹壕を掘り、排水とゲリラ襲来時の避難場所を兼ねてい
る。こうして基礎的な設営を終え、細かいことは後任に任せ、千田はキャンプを後にした。
 ところがそれから三目もたない深夜、調査隊がゲリラに襲撃された。これは護衛の兵隊が住
民に恨まれていた事が原因で、兵隊はやられたが隊員にケガはなかった。しかし流れ弾が飛
んできてテントの鉄柱に当たりきびしい金属音を発するなど、皆生きた心地がしなかったとい
う。
 このとき千田は日本に向かう飛行機の中だったのである。さらにこんなこともつづく。
 インドネシア、スマトラ島北西部に、トバ湖という世界有数の陥没湖がある。
 メダン西南部バリサン山脈の中央、海抜900メートルに位置し、1,100平方キロメートル(琵琶
湖の約2倍)の清水をたたえる湖。
 その東南部を源として、アサハン平野を奔流し、マラッカ海峡へぬける全長150キロメートル
のアサハン河。そこに計画中だつたアサハンプロジエクトの調査でのこと。プロジェクトでも最
も地形のきびしいタンガダムサイトを下まで降りてみようとロッククライミングの装備をし、予備
ロープも着けて降りていった。そこは斜度70度、川までオーバーハングをともなう200メートル近
くもある断崖である。40〜50メートル位下までは降りたのだが、あまりにオーバーハングしてい
る部分が長くそれ以上先にいけなくなってしまった。上には助手がいるので予備ロープで引き
上げてもらうことはできるのだが、それにもある程度の自力がいる。
 予想以上の厳しい状況に力尽き、下りることも戻ることもむずかしくなってしまった。精魂尽き
果てたまま、千田は長時間、宙にぶらさがったままになってしまった。
 これで終わりかと、気弱な事も脳裏をかすめたがプロジェクトヘの使命感と、そして一週問前
からにわか仕込みででもロッククライミングの練習をしていたお陰で一命をとりとめ得た。
 一見無謀なこの行為には理由がある。それは、ダムを造るのに谷底を見た人がいないから
だ。
 航空写真を撮っても峡谷底までは太陽光が届かずほとんど写らない。当然地質を調べるに
はボーリングぐらいしか手だてがない。
 400メートルの深さをボーリングすると1本に1千万円がかかるばかりか2ヶ月もの期問を要す
る。人間が下りればそれらを手早く解決できる。
 このためなんとかしてみようと思ったのである。このアサハン第一次調査でのタンガダムサイ
ト降下作戦は成功し得なかったものの、二次調査(1977)での成功ヘの足がかりとな一た。つづ
いてのシグラグラの滝の降下作戦には成功した。1972年、千田38才の時である。
 毎秒100トンの水が200メートルの高さから、怒濤の如くの形容さながらに流れ落ちるシグラグ
ラ滝。これは利根川の中流域位の水量に匹敵する。その滝壷ヘ日本人として初めて下りたっ
た。この壮大な滝壷からの姿を千田は下から写真におさめる。
 数々の自然との葛藤から、その本来のきびしさの一端を識り得ることとなって今日、ふり返っ
てみれば、最初はわずかの知識を得てすべてを知ったがごとく振る舞い、先輩諸氏のひんしゅ
くを買うことしばしば、相当な生意気ぶりであった。しかし、一球入魂を旨としてきたこれまで
が、こんなに楽しく青春時代的ときを過ごす結果となるとは思ってもみなかったことである。
 千田は昭和28年岩手県立黒沢尻工業高校採鉱科を卒業した。父は石工である。
 石積み現場なによく連れられ周りにはいつも石があり、石をおもちやに遊び育った。また、石
屋だった関係から父は宮沢賢治と面識があったらしい。
 彼は農林地質学の専門家でもある。千田が生まれる前年に宮沢賢治は他界したが、父が生
前彼から譲り受けたとかいう地学の入門書らしい小冊子をくれた。
 30ぺージ足らずの本だったが、基本的なことが書いてある。地学の本など田舎の子供などに
とうてい手に入らない時代である。千田は子供時代に幾度となくその本を読み返し、それはバ
イブルのような存在だった。そして中学に入ると地学に造詣の深い若い兄さんのような先生に
出会い地学ファンとなる。
 実は高校卒業の時点で、千田は三菱金属鉱業に就職が内定していた。それが朝鮮動乱が
終わり、金属関係の景気が冷えこんで、内定取り消しになってしまったのである。途方に暮れ
ていたところへ、日本工営から高校新卒者公募の案内が学校に舞い込んだ。
日本工営第一回の採用者公募である。発足問もない電源開発会社の技術部門をとりしきるこ
ととなったため現場を走り回れる若い監督を必要としていたのだった。
 北海道から南は宇都宮まで、北部地方一帯の工業高校の土木系の新卒者が応募に集まっ
た。数10人いたうち受かったのは10人。このとき千田は補欠採用だった。ところが誰かが最終
の身体検査で落ち、千田が繰り上げ採用されたのである。この頃から運が向いてきたのだろう
か。
 千田は若手県北上川流域、猿が石(現東和)発電所水路隆道工事の現場監督となり、トンネ
ルの神様といわれた上田勇氏らの薫陶をうける。
 トンネル工事の現場では、蛇紋岩というやっかいな地質で掘る度に地質の変化が見られた。
 本来地学好きの千田は、仕事の傍らそれを克明にスケッチしていた。そこへ本社の志賀正
臣氏がやって来る。氏は地質学の権威で、各方面のプロジェクトを巡回、点検する仕事をして
いた。
 当時は地質部という確固としたものはなかったので、地質技師長のような役職だろうか。そし
て千田のスケッチを見るなり、
「おまえ現場監督なんかやってないで俺の助手になれ」
 といったのだった。
 こうして土木の試験を受げて入杜した千田は抜擢されて、地質部門専門になる。
 数年して社に地質課が誕生と同時にここの一員となる。それからは会社が研修所のようなも
ので、意識的に勉強する日々が始まった。自分なりにもやってはいたが、なんといっても故上
田氏、志賀氏、のちに長らく指導を受げた境田正宣氏を始め多くの先輩たちから厳しく仕込ま
れた事が大きい。
 土木、測量設計、発電工学等の知識が若い頭に吸い込まれるように染みこんでいった。故
久保田豊師の哲学など、大学へ行くよりはるかに多くのことを学べる大変なところに入ったと
千田は思う。
 現在千田は日本工営でのトンネルのトップエキスパート(執筆当時)であり、地質の技術士。
 そして今の自分があるのは、これまで多くの上司、プロジェクト現場で親身になって支えてく
れた後輩や協力会社の人たちのおかげだと思っている。
 千田は高校時代ラグビーをかじっていた。ラグビーで大切なこと。それはいかにしてボールを
持っている人をサポートするか。自分が突っ込まなければならない時は突っ込む。しかし今先
頭に立っているのは誰かを常に考え、その人を支えることがより大切である。
 ラグビーの精神、ワン フォー オール オール フォー ワンを千田は座右の銘としてもちつ
づける。
 意をなかばにして殉職した諸氏の霊の安らかんことを念じ、また先輩の渡してくれた濃厚なる
技術というたすきを、一層加速させて後輩に渡したいと、千田は願って止まない。(以上)


「虹を掛ける男たち 開発コンサルタント戦士の回想1」(1994年7月1日発行) より、千田執筆分のみ抜粋
 監修:日本工営株式会社編集委員会
 製作:(株)表現技術開発センター
 発行:(社)日本産業再建技術協会
 発売:(株)国際開発ジャーナル社


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